昭和47年5月28日 特別奉修委員
中村良一
生き生きとして、私共の上にお働き下さる、その、生き生きとしたお働きの中には、本当に、有難い、勿体ないと思わにゃおられないおかげと、本当に、辛いとか、苦しいとかという事もあるのですけれども。その、辛いとか、苦しいとかというところを、今朝の御理解じゃないけれども、頂く味付けを、金光大神にして頂いて、そして、頂くと言う様な事を頂きましたですね。
私は、昨日、ちょうど、四時の御祈念を終わってから、子供達が、昨日、あの、バンドの練習日でございましたから、盛んにやってましたから、あの、共励でやっとると思いよったら、あの、あっちの、表のほうでやっとるのですよね。だからあの、こうまい子供達も、みな来とりましたから、どのようにして、しよっじゃろかと思うてから、行ってみたら、昨日は、外でその、行進の、ね。あの、本部辺りで見るでしょうが、なんか、先頭に立って、くるくる廻して行ってね、後ろから、その、・・・。行進の練習をしておる、ちょうど、ところでした。それから、ちょうどあの、昨日は、ここが、全部、あぁしてあの、コンクリ打ちをやっておりましたが、あの大きなあの、コンクリを廻す奴が、四台も入っとりました。そして、こんな大きなホースで、どんどん、どんどん、こげなふうで、水を流すと同じですね。もう、瞬く間にその、あれになって、やっておる。本当にあの、ちょうど、楽室では、今、豊美が来ておりますから、あの、三人の舞人さんどんが、記念祭を目指して、舞の稽古をやってます。表では、マルショウの楽隊の行進の稽古をやっている。こちらでは、まぁ、ちょうど、二十四五人ぐらいだったでしょうね、その、黄ないあの、帽子をかぶって、鉄兜かぶった方達が、一生懸命、そういう作業をしておられる。
昨日は、秋永先生が、御本部に、昨日か、一昨日かやった、昨日は入殿でした。それから、光昭、直子達が、昨日は、五人、マルショウの幹部だけ、東飯塚教会でマルショウの何か、講習会に行ってる。もう、あれを思い、これを思い。本当、誰も、こうせんならん、あぁせんならんと言うのでもないのに、もう、さっさと、そうした、その、生きた神様の働きというものをね、目の当たりに見せていただいて、これこそ、神様の、手の舞、足の舞であろうと、こう、私は思わせて頂いて。あの、掲揚台の所へ立たせていただいて、あっちを見こっちを見しながら、もう、感激一杯で、家に入ろうとしよりましたら、ちょうど、高柴さんが、あの、見えられまして、それで、親先生、買うて来ましたよち言うちから、何かこう、箱を持って来よるとです。何じゃろうかと思ったら、あの、宮崎に、あの、娘婿が行きますので、あちらへ行ったら、親先生の、もう、これが一番と言われるその、柚で作ったお箸をね。あの、頼どったから、買うて来ましたからと言うて、まぁあの、夫婦、箸置きと一緒に、まぁ見事な、柚の木で作った箸を頂いたんですけれども。まぁ、柚の木の箸といい、本当にあの、何もかにもが、こう、ままになって行っておるという事ですね。そういう働きが、もう、その、もう、それこそ、もう、手になり、足になる人達が、それぞれに、一応、人間ば言うて来とるけん、喧しゅう、あんたが言って下さい訳でもないし、そんなら、マルショウにでも、今からこうして、行かじゃこてでもないのに、もう、本当に、私が、ただ、あの有難うさえなっときゃ、こう言う働きがあっておるという事ね。で、この、私の喜びが、この感動が、合楽全般のご信者さん達の、一人ひとりの上に、おかげの原動力になっておるんだと思うて、いよいよ有難いと思わさせて頂いたんですけれどもね。もう、本当にあの、神様の、これが、手の舞、足の舞であろうかという様なおかげをね。自分の身の上にも、家の上にも、頂かなければ、どうぞ、こげんして下さい、あげんして下さいと言うて、曲りなりにおかげを頂きましてもね。それでは、大したことではないと思うです。そのためには、やはり、ほんなら、神様の生き生きとした働きの中にね。痛いとか、苦しいとか、悲しいという事もあるという事。神様の生き生きとした働きの中に。そこからその、生き生きとした、その働きを、例えば、素晴らしい味付けを、金光大神にして頂いて、いやであった事が、好きになる様なおかげを頂かせて貰うて、初めて、ね。本当に、どんなに考えても、勿体ないという様な、本当に神様が、手の舞、足の舞いしながら、おかげ下さってあるおかげが頂けるようになると思うんですね。
昨日、そんな感じで、帰らせて頂いて、そこんところから、外を眺めさせて頂きよったら、ちょうど、本郷の若先生がやってきてから、末永さん達と一緒の、・・・。末永さんを訪ねて、他の友人の方を連れてやって来てるんです。ちょうどあの、夏休みに、ここにあの、聡子が来とった時分に、一遍、見えた事があって、今日はあの、この友達は、信心が、全然、無いとですたい。けれどもあの、合楽の親先生の話なら、これ達にでも分かるだろうと思うて、連れて来ましたとか言うて、まぁ、それから、お風呂に入って頂いたり、お食事を一緒に差し上げたりして、おかげ頂いたんですけれども。ここの子供には、何もならんごたるけれども、それが、どういうまた、働きになっていくやら分からないですね。甘木関係の、いわば、方達なんですけれども。
その前の日は、萩の教会のお嬢さんと言う方が、一晩泊まりで、ここへ見えておられました。この真相の、合楽の信心の、まぁ、言うならば、そういう人達の上にまで、神様が、人を使うては、神の、言うならば、ここの信者だけではないね、人達にまで使うて、神様の願いと言うものが成就して行きよるんだなと、まぁ、思わせていただいたようなわけでした。どうぞ一つ、おかげ頂いてね。もう、本気で、現在の難儀と感じておる事の、そのご真意というものに対して、ね。もう、そこで腹を立てたり、情けなかったりする様な事では、何時までたっても、神の舞、神のその、手の舞、足の舞とだろうといったようなおかげは受けられませんです。一生、神様に、ぶら下がった様な。神様に、どうぞどうぞと言うて、無理ばっかり言わねばならんようなおかげしか頂けんと思うですね。どうぞ。